塵の名前、灰の名前 19


「オリハウラ。」
はっとした。 尾は塵に戻るのをやめた。
ジュノウはあきれた顔でこちらを見ている。

「お前… 契約の内容を忘れたのか?」
ジュノウは精霊の苦悩にみじんも気づいていなかった。
よくよく考えれば、精霊のセリフは随分前にやたらと口にしたものだった。
「契約…」
「お前の長ったらしい名前を呼ぶことを強制しないこと。」

ジュノウと精霊の最初の契約の時、精霊は「自分の名前は必ず、すべて呼ぶように」と言い続け
うるさがられたジュノウに契約を破棄されている。
その失敗を踏まえ、現在の契約では、「名前をオリハウラとしか呼ばない」とした。

「あ、 ああ〜… いや忘れては…」
「もーしー、お前が、俺にそれを強制するならば。 その時は確かー」
ジュノウがわざとらしく指を立てる。
「契約を即時破棄すると…」
「違う!! 強制しているわけではないぞ!! 落ち着け!」

オリハウラは慌ててジュノウのほうへ駆け寄った。
敷居をまたぎ、家の中へ。
「…あ。」
なぜか越えられないと思った一線だった。 それを何気なく越えてしまった。

ジュノウはあきれ顔のまま続けた。
「お前はなんだってそんなに名前にこだわるんだ?」


オリハウラの言葉の解釈を、ジュノウは間違えたままだ。
…だけど、ジュノウの言葉はオリハウラに届いた。

「オリハウラでいいだろ?」

オリハウラは顔を上げた。


もう体は重くない。 尾はまき散らした塵を再び集めて形を取り戻す。
扉から入り込んだ風が、オリハウラの尾を優雅に揺らした。
紋章は赤みを取り戻し、輝いた。

「そうだな。」

…テティウスではなく…
「オリハウラで…いい。」

あっさりとした返事に、ジュノウは拍子抜けしたらしい。
「はっ」と小さな声が漏れた。
「…今日は随分と諦めが早いな」
わけがわからないという顔のまま、居間に引っ込んだ。


自分は、何をもってして”自分”となるのか。
自分はオリハウラなのだ。 ジュノウがそう呼ぶからオリハウラなのだ。
過去にどんな名前を自分が持っていたとしても。
いくつ名前があったとしても。
”今”、確かに自分はオリハウラだ。

一歩進み出た。
…なんだ。 なんでもないじゃないか。
2本の尾が楽しげに揺れる。

「ねぇ。」
ガーベラがオリハウラにだけ聞こえる声で言った。 姿は見えない。 まだ食事の途中だ。
「私は何と呼べばよくなったの?」

もはや一瞬の迷いもない。 よどみなく答えた。
「我こそは、ヴェルヴェド・テオ・テティス・シュトラーム・デル・オリハウラ。」

例えその名前が勘違いで名乗ったものだったとしても。


「オリハウラと、呼んでくれ。」

ガーベラの声が「そう」とだけ返事をした。 再び食器のぶつかりあう音がする。



風が扉を押した。
ギィギィと音を立てながら、扉はゆっくりと閉まる。



ギィギィギィ…

パタン。


オリハウラは、オリハウラに、成った。




塵の名前、灰の名前 END


戻る