塵の名前、灰の名前 17


柄にもなく花を愛でてから扉を開けると、ガーベラが居間でくつろいでいるのが見えた。
戦利品をニコニコしながら眺めている。

台所からは何かを焼く音が聞こえてくる。
「ガーベラー!!」
家の主、ジュノウが料理の音に負けないよう声を張り上げた。
「遊んでないで、少しは手伝えよ!! お前のメシだろうが!」
なるほど。 ジュノウは帰りの遅くなった娘の昼ご飯を作っているところらしい。

「やーよ。」
ガーベラはそちらを見もしない。
こういう場合は作りはじめてしまった時点でジュノウの負けだ。


やがて「ほら!できちまったぞ!」と声が響く。
そこでようやくガーベラは立ち上がった。
居間から出て玄関の前まで来たところで精霊の姿が目に入った。
精霊は扉を開けっ放しのまま座り込んでいる。 お互い目が合ったのがわかったが、何も言わない。
不思議な一瞬の間。 その時間でガーベラは今自分が、彼にしてやれることはないと悟った。

ガーベラの姿が台所のほうへ消える。

「お前なぁ…」
どんな顔をしているかすぐに想像できるジュノウの声が聞こえた。
「ありがとう、お父さん。おいしそうね」と娘は心得た返事をする。

椅子を引く音。
「いただきます」  カチカチと食器の触れ合う音が響く。

ジュノウが困ったような嬉しそうな顔をしたまま、台所から出てきた。
精霊に気付いたジュノウの顔が怪訝な表情に変わる。
「…何やってんの?」

精霊は扉を開けたまま、家の外に座り込んでいた。
敷居の外に。 背中に棒でも入ったかのように真っ直ぐな姿勢だ。
「おい、オリハウラ。 寝てるのか?」
首すら動かなかったから、思わずジュノウは声をかけた。
「起きておる。」
「じゃあ何やってんの?」
扉を開けっ放しで寒いということはないが、少なくともそうしている合理的な理由はない。
だが、精霊はそこで足が止まってしまった。

「我は…」


――我はオリハウラではない。


言葉が出てこなかった。

ガーベラは、名前が変わっても何も変わらないと言った。
自分もそう思う。 …そう思った。
テティウスである必要はない。 でもそれなら、オリハウラである必要もないのではないか?

オリハウラ=ベルベルタが灰ならば、自分はただの塵だ。
塵に名前などない。

自分はなんだ? 自分はオリハウラでもテティウスでもないのではないか?


「…どうした?」

我は… と言ったきり固まってしまった精霊の顔を、契約主が覗き込む。
空色の髪が揺れた。

「我は…」
頭が混乱している。 自分のことがわからない。 何を言いたいのかわからない。
視線がジュノウの顔から壁や天井へ飛び、定まらない。
紋章が赤黒さを増し、尾が形を失くして塵へと戻っていく。


「我の」
…我?俺?私?僕? 我? 自分? 誰?

「…名前…なんだ? 正確な名前…」


名前? 名前? 名前? 塵に、名前?


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