塵の名前、灰の名前 13


―――これは何だ?
鏡の中に映ったもの。

痩せこけた顔。 顔色は青白い。
生気のない目。 白目がぼんやり黄色くなっており、黒目は濁っている。
唇は青く、ひび割れている。
顔からは毛という毛が抜け髭も眉もない。 頭には少々残っているが真っ白だ。
歯は真っ黒か、茶色に染まっている。 抜けた歯はないが、欠けているところがある。
首はまるでアイロンをかけていないシャツのようにくしゃくしゃだ。


手鏡を傾ける。

少女の顔が手鏡に映る。 少女は男が見た通りに鏡に映っている。 違うのは左右が逆であるところ。
テティウスも鏡に映す。 彼も同じだ。
道行くものも、市場も鏡は正しく映している。
空も木も獣も雲も。 みな彼が見た通りの姿を鏡に映す。

鏡を正面から見据えた。
これは何だ?



―――これは私だ。



指で鼻を触る。
鏡の中の自分も同じ動作をする。

指もひどい有様だ。 爪は真っ黒で、3分の1は欠けている。
手も痩せているが、血管は浮いていない。 …血なんか流れていない。
力を入れて鼻をこすると、黒い灰がパラパラと鏡にかかった。

…これが自分。



「あ…ああああ…!」
男は鏡を持ったまま座り込んだ。
涙を流すことなく嗚咽を漏らす。
魅力的だった声は、枯れ果てしわがれた声に変わってゆく。

彼は知らなかったのだ。 自分がどんな姿になっているかを。
気にも留めなかったのだろう。 彼は今でも昔の姿でいると思い込んでいた。
今日着ている服も、昔の彼であれば似合っていたものだったのだろう。
その言葉も、考え方も。

それがガーベラが感じた彼の「醜さ」の原因だった。彼は己を知らずに己を語っていたのだ。

鏡を持ったまま泣き声を上げる男の方を、通行人の誰もが見なかった。
彼の世界を変える力が急速に失われていくのがわかる。
…彼は誰にも影響を与えない。 誰も彼に注目しない。

彼の行動で世界は変わらない。


男はそんな周辺の様子に気が付いた。
気付いてさらに大きな声を上げたが、やはり彼を見ているのはガーベラと精霊だけだった。
泣きながら地面を叩いても、地面を叩いた手が砕けて灰になっても、誰も彼の方を見なかった。

やがて男は声を上げるのをやめた。
ただ鏡を抱いたまま、座り込んだ。
目には何も映っていない。 150年という月日の現実が彼の胸中を占めている。

彼はもう、研究を手伝ってくれとは言わないだろう。

ガーベラと精霊はそっと男のそばを離れた。
たかだか1時間程度の問答だった。


少し歩いて男のほうを振り返る。 同じ体勢で座り込んだままだ。
ああして夜まで座り込んでいるような気がする。

それでもきっと、彼に声をかけるものはいない。 灰に話しかける人間などいないのだから。


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