神官と咎人 花と記憶 3



この日、この瞬間

パンセは
    ―――――取り残された。

たった一人、流れる時間の中からはみ出して、パンセは止まってしまった。
何をどう考えたらいいかわからない。
今得た情報をどうやって組み立てていけば正しいのかわからない。

一番簡単な方法は、すべて否定することだ。
「嘘だ」 「こんなのはすべて嘘なんだ」と。

…だが、ジュノウは今目の前にいる。
自分は今、ジュノウの目の前にいる。
「君、眼を怪我しているのか?」
ふいに、優しい声色で尋ねられた。
また、パンセの中で否定したいことが増えた。

―――ジュノなら… 私の知っているジュノならこんなこと訊かない…。
ただ黙って首を振る。口に出して否定することがむなしかった。
ジュノウがそっと手を伸ばしてくる。「外すよ」といって目隠しに指をかける。

息を飲んで、反射的にパンセはのけぞった。
「外さないで」
自分の反応に驚きながら、パンセは目隠しを抑えた。
これを外したら、自分の眼の無い顔にジュノウは驚くだろう。
そうしたら何て言えばいいのかわからない。 「なぜ驚くの」と問いたい気持ちでいっぱいになる。
今は… 今知ったことだけで十分混乱している。
少し落ち着かなくてはならない。

「悪い…」ジュノウはそそくさと手を引っ込めた。
「俺、君と会ったこと… 覚えてないんだけど…」
と、バツの悪そうな顔でこちらを見る。
「それ外したら顔がはっきりわかって、思い出せるかと思ってさ」

これをつけててわからなかったら、これを外したってわからないのよ。
「会ったこと… …」
ある と、言いたい気持ちが急速にしぼんでいく。
もしかしたらここにいるのは、ジュノウに良く似た全然別の人間かもしれない。
ありえなくはない。少なくとも、ジュノウが自分のことを忘れること以上にありえることだ。

「…ないかもしれない。人違いかもしれないわ。」
自分の心を護るために、パンセはわずかな希望にすがった。

わずかに床を叩く靴の音が聞こえる。
青い髪の神官の靴音。
休ませてほしい といったら、男は素直に部屋を出て行った。
―――違うのよ。 あの人はジュノじゃない。
ベッドに突っ伏して希望を探す。

ジュノじゃない。 よく似た別の誰か。
だって私のことを、忘れるはずがないもの。
名前も同じ、顔も同じ、声も同じ。 だけどよく似た別の誰か。
オリハウラにそっくりの精霊が一緒。 だけどよく似た別の誰か。

…別の誰かなの。そうじゃなきゃダメなの。
希望が光をこぼしながら、パンセの前から飛び立っていく。

―――でも、そうじゃなかったら?
絶望が頭をもたげた。
足音が止んだ。 扉のきしむ音が聞こえる。
涙は出なかった。 …彼女には眼が無いから。
彼女は突っ伏したまま、小さく嗚咽をもらす。
自分自身がよくわかっている。

あれはジュノウだ。
自分がよく知っている ジュノウだ。
考えることができなかった。
ただただ、事実だけが流れ込んできて彼女の正常な思考を汚していく。
その流れに身を任せたまま、しばらくそうして突っ伏していた。

『水ならあるぞ』
懐かしい声が聞こえたような気がした。
ぼんやりとした視界の片隅に、ジュノウが置いていったコップが入り込む。

怖くて顔も上げられず、都市の片隅に座っていたパンセにジュノウはそう声をかけた。
…そうだ、あの時も彼が差し出したのは、水だった。

『ほら、ここにあるぞ。』

壁の布はとても綺麗だが、身につけるのには派手すぎると思った。 だからあそこに飾ったのだ。
鉢植えはまだ成長途中だ。 少し水をあげたほうがいいだろう。
物入れは無い。 どこを見ても無い。 ジュノウが片付けてしまったのかもしれない。

パンセは顔を上げる。
コップを手に、彼女は記憶をたどる。
ざらついた床。乾いた風。  …優しげな声。
青い髪の神官から水の入った器を受け取る。

―――また私に、水をください。

喉をならして、飲み干した。


気がついたらベッドの上だった。
見慣れた風景、嗅ぎ慣れた匂い。
間違いなくここは 彼女の「家」だった…。