塵の名前、灰の名前 2


事件ですらない。 市場はすぐに元の様子を取り戻した。
再びオリハウラの目の前を色とりどりの人が行き交う。

…だが先ほどのようにその様子を楽しむことが出来ない。
男の姿が目に焼き付いて離れない。

オリハウラは途端に家に帰りたくなった。
ガーベラはまだだろうか? 一体いつ戻ってくるのだろう。
飼い主を待つ犬たちを眺めながら、自分も眠れたらいいのに と思った。


日が高いところへ来た。 じりじりと地面が焼かれ、空気が揺らめく。
寝ていた犬たちが恨めしげな目で主人を探す。

早々と店じまいを始めたところがいくつか目につく。 おそらくは新鮮さを売りにした店か、売り物がなくなった店だろう。

まだガーベラは戻ってこない。 呼びにいこうか。
…いやまて。 今ガーベラはどの店にいるのだろう。
一店舗に留まるはずがない。 探せば行き違いとなり、最終的には「どこにいってたの」と言われるに違いない。

留まる。 待つ。
他に選択肢はない。


「クロー」
隣にいた犬が顔を上げる。
クロと呼ばれた犬は名前の通り黒い犬で、やっぱり黒い尾をちぎれんばかりに振りながら主人に飛びついた。
その様子をじと目で見送っていた別の犬も、名前を呼ばれ大慌てでしっぽを振りまくる。

(昼だからか…)
彼らは自分と違って生き物だ。 そう長く放っておくわけにはいかない。
心ある飼い主は次々に犬や馬を迎えにきた。

…だが自分の主人はと言えば。 オリハウラは生物ではない。水やご飯がないからといって死ぬことはない。
オリハウラはふてくされてそっぽを向いた。



「テティウス!」
また誰かの飼い主が来た。 こじゃれた名前だ。

「テティウス!」
再びの呼び声。
オリハウラは周囲の犬たちを見渡した。 誰も反応していない。
随分と慕われていない飼い主のようだ。
「なぁ、おい。 テティウス。」
声が近づいてきた。
オリハウラは身を起して慕われていない飼い主のほうを見た。
聞き覚えのある声。

低くて、通る声。


先ほどのおかしな男が、まっすぐオリハウラのほうへ歩いて来るのが見えた。


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