塵の名前、灰の名前 3



オリハウラはその場に硬直した。
先ほどは犬や馬を連れた様子はなかったが…

男は微笑みながら近づいてくる。 不気味で、体の芯から寒くなるような微笑み。
「テティウス。」
間違いない。 この男はオリハウラに話しかけている。
こいつは誰だ? テティウスってなんだ?
オリハウラは伏せ、首だけを上げた体勢で硬直したままだった。


「テティウス? テティウスだろう?」
首を傾げ精霊の顔をのぞき込む。

「その紋章、間違いない。」
にこりと笑う。 それでもオリハウラは何も反応しない。

「私のことを忘れてしまったのか?」
改めて近くで見ても、やはり不気味だ。 顔も首も皺だらけなのに、声ばかりに張りがある。

「お前は誰だ」
つぶやくように言う。
声が相手に届かなくてもよかった。
ただ黙って彼の視線を受け止めていることが出来ず、声を出した。

声は男に届いたらしい。
ほんのつかの間、目を丸くした。 黄色くよどんだ白目。 暗く底なしの濁った黒目。
その表情の後、再び微笑んだ。


「そうか… もう150年は経ってしまったからね…」
寂しそうに言う。



「私はオリハウラ=ベルベルタ。 君と契約していたものだよ。」



足音が聞こえる。 大勢が行く音。
笑い声が聞こえる。 何がそんなにおかしいのだろう。 何人もの声が聞こえる。
なぜ自分はここにいるのだろう。  …そうだ、ガーベラを待っているのだった。
ガーベラ… ガーベラはどこだ?


―――今、目の前の男は何と言った?

―――なんと名乗った?


こいつは誰だ?!

「この世界も妙なことになってしまったからね。…忘れられてしまうのも無理のないことか。」
寂しげに笑う。

「あぁ、でも聞いてくれよ。 君に手伝ってもらった研究がついに実を結んでね。
 私も、塵とはいわないけど」
「嘘だ」
「灰で  …え?」


「嘘だ。」
低く唸るような声が出た。
紋章が赤く輝く。

「我は契約主のことを忘れることなどない。お前は我と契約したことなどない。」
どんなに記憶を辿ってみても、こんな男に見覚えない。
「いいや。私は確かに君と契約したよ。 君は塵と風で器を作ることができる精霊だろう?
 女性が好きで、よく女中に手を出してたじゃないか。」
目の前の男は …オリハウラ=ベルベルタは快活に笑う。

「そんな記憶はない。」
「巻き戻りで忘れてしまったようだね。 昔のことだ。 仕方のないことだよ。」

忘れる? 巻き戻り?
それらはオリハウラが最も忌み嫌っているものだ。
自分は忘れていない。 巻き戻りの影響も受けていない。

受けていない。 受けるはずがない。
忘れるはずがないんだ。 それも契約主のことを忘れるなんて、そんなはずはない。
「今は獣の姿をしているんだね。 さっきは気づかなかったよ。 でも」
額を指で指す。
「その紋章だけは一緒だ。 私と一緒の時は鳥の姿だった。」
「…鳥。」
精霊オリハウラは硬直したまま唸るような声を上げる。
怒りと混乱が入り混じったこの感情を、なんと表現したらいいだろう。

「そう。 大きな羽を4枚、長い尾を垂らした鳥だった。
 始終あの姿だったけど、やっぱり変えることもできたんだね。」

4枚の羽、長い尾。
それはしばらく愛用していた姿だ。 ジュノウと契約したときもその姿だった。
いつから使っていたかは忘れてしまった。

「少し思い出話をしたかったのだけれど。 …すっかり忘れてしまったようだね。 残念だ。」
男は「じゃあ」と言って頭を軽く下げ、帽子をかぶり直した。
踵を返すと、ゆっくりと出口のほうへ歩き出しす。

精霊は硬直したまま、男の背中に訊いた。
「テティウスとはなんだ。」
この言葉には反応してほしかった。 だけど出た声はやはり呟くようなものだった。

男は問いに気付かず、精霊から離れていった。


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