神官と咎人 花と記憶 21







月がゆっくりと動いていく。
星がいくつか流れていった。
夜が青さを増して、空にはふくろうの声が響く。きっとカラス達がおびえていることだろう。


―――疲れた。
泣き終わっての感想はそれしかなかった。
頭が空っぽになって、けだるい感覚だけが体に残っている。
眼がしばしばする。 眠いと、思う。
だけど、寝てはダメだ。 今寝たらきっとまた、忘れてしまう。

「忘れてない。」
口に出しておかなければ、いつまた忘れてしまうのかと不安になる。
「俺は忘れてない。」
はっきりと言葉に出しても不安が残る。
ひざを抱えて夜の静寂に耳を澄ます。

忘れることが恐ろしい。
…いや、忘れてしまったままならきっと、何も恐ろしくない。
だけど、ジュノウは気づいてしまった。 忘れてゆく自分に。
不気味な感覚。 自分のことが信じられなくなる。
ほんの数時間前のことなのに、あれほど衝撃的な話だったのに。
忘れていたのだ、自分は。 どうやったら忘れられるというのか。
忘れたまま朝を迎え、オリハウラに話しかけられていたら、俺は何と言っただろう。

―――きっと、「そんなことなかったろ、ぼけてるのか オリハウラ」と言っただろう。
「そんなことなかったろ…
 ぼけてるのか…

 ジュノウ。」
こんなに恐ろしいと思ったことが、今まであっただろうか。
また泣きそうになってくる。
ダメだ、泣いてる場合じゃない。
きっと他にも忘れていることがある。

3年前の戦争のこと、パンセのこと。
とても信じられない。 ジュノウの頭のどこを探ってもそんなものは引っかからない。
だけど本当のことかもしれない と信じかけている自分が居る。

パンセの体にぴたりと合う服、パンセの名前を刻んだ食器、なぜか空いていた部屋。
―――彼女はここに住んでいた。
なんとわかりやすい結論だ。 彼女が住んでいたからすべてのものが揃っていたのだ。
ただそれだけのことならジュノウはあっさりと「そうか」と言えただろう。

だがオリハウラは言った。
ジュノウとオリハウラと「共に」暮らしていたんだ、と。


信じられるわけ…ない…。

信じ… …られない。


一番信じられないのは…     ……


…………自分。

「オリハウラァ!!!」
悲鳴にも似た声が家中に響いた。
きっとパンセにも聞こえただろうが、そんなことには構っていられない。
扉の前で待っていたのだろう。
ほんの数秒の後、オリハウラは扉を開けた。
らしくないほどお行儀のよさで、扉を開けたっきり、その場で座り込んでいる。
待て といった覚えはないが。
「入れよ…」
足音を立てずにオリハウラがそばによってくる。
真っ赤になった眼を隠す気にもならなかった。
膝を抱えて精霊を見つめる。

「我を呼んだか。」
「呼んだ。」
「思い出したのか。」
それは今、俺にとって酷な質問だ。
「いや。
 …また忘れそうになった。」
オリハウラから小さなため息が漏れた。
「なんでだろうな。」
問い …というより独り言だった。
「よほど都合が悪いのだろう。」
意外な返事に眼を瞬かせる。
「誰の?」

「神… …だと思うが?」
皮肉なものだ。 ここへきて”神”に関わることになろうとは。
「ならその神の所業を、俺に教えてくれないか。」
口も眼もないのに、オリハウラがニヤリと笑ったのがわかった。