神官と咎人 花と記憶 24







「ランタンには… もう二度と忘れませんように と書いた。」
パンセがジュノウの言葉に頷く。
「俺は以前にも何か、…忘れたのか?」
忘れませんように という言葉は、忘れた人間が使うものだ。
俺はもしかして以前にも…

「違うわ」
否定の言葉がきっぱりと告げられる。
「忘れたのは…私。」
忘れた。 …パンセが?
「私… ここへ来る前のことが思い出せないの。  気がついたらマッカにいて、…気がついたらジュノウが目の前にいた。」

忘れてしまったのは事実。
だけど、忘れてしまって辛いと思ったことは一度としてない。
でもあの夜、思ったのだ。 今、この瞬間を、忘れてしまったらどうしよう…と。
「だから、忘れませんように って書いたの。
 ジュノは全然願いごとがかけなかったから、私が同じことを書いたのよ」
そうしたらジュノウは笑いながら、言った。

―――俺は何も忘れないよ。

忘れない。 二人ともそう信じていたの。あの瞬間は。
でも…
       …願いは叶わなかった。


美しい夜空 飛んでゆく光がこんなにも鮮やかに思い出せるのに。
隣にいた人が誰だったか、全く思い出せない。
声も
髪も
ランタンを離した手も

何一つ。


その部分だけ切り取られたように、欠けている。


「パンセも… この名前も、ジュノがつけてくれたの」
俯いていたジュノウが顔をあげる。
「…俺が?」
「そう。 名前も、忘れていたから。」
「…パンセの名を… 俺が…」
ジュノウはしばし床を見つめ、 …あきらめたように目を閉じた。
「俺が…。 そうか…。」
「どうしてパンセってつけてくれたのかしら」
あの時、理由を深くは訊かなかった。
訊いておけばよかったと、今にして後悔している。


パンセ。

思いつくのはあの花の名前だ。
俺が、つけたのか。 …あぁ、わかる。
鮮やかなオレンジ色の髪はパンセの花びらを思い起こさせる。
それに、出会ったのが3年前。 きっと彼女はまだ少女だったはずだ。

「君の髪はパンセを思い起こさせる。 …知っているか?パンセは小さな花の名前だ」
「えぇ、知っているわ。」
「パンセの花言葉は”少女の恋”」
過去の俺が彼女に詳しく説明しなかった訳がわかる。
ジュノウにしてはロマンチックで…声を大にして言いたい理由ではない。

「出会った頃の君はまだほんの少女だったんじゃないか?
 …だからきっと、恋を知って成長して欲しいと思って、  …つけたんだ。」

…あぁ、わかる。 つけた記憶がなくてもわかる。
これは俺がつけた名前だ。


しん とした空気が部屋中を満たす。

鳥の羽ばたく音が聞こえてくる。 風が木々を揺らす音がする。
時間は動いている。 今この瞬間も、次の巻き戻りへ向け過ぎてゆく。

「私ね… 本当に全部忘れてしまったの。 年も名前も… 自分が何だったのかも。
 だからジュノが名前をくれた。」
静かな声が静かな部屋に響く。

「でも楽しかった。 楽しかったのよ、本当に。
 ジュノがいて、オリハウラがいて、シャントリエリがいて、 …いろいろな人と関われて。
 忘れたことも忘れて、思い出したいって思ったことがなかったの。
 でもね…」
パンセの口元から笑顔が消えた。
「知らなかったの…」
細い肩が震える。

「知らなかったの… 忘れられることがこんなにつらいって…
 全然知らなかったの…。」